世界大戦までの流れ
深まる戦争体制になります。
- 1931年…柳条湖事件→満州事変
- 1932年…満州国の建国→
- 1933年…国際連盟の脱退
- 1937年…盧溝橋事件→日中戦争
- 1938年…国家総動員法
- 1939年…第二次世界大戦(第二次世界大戦が始まった1939年は、日中戦争の最中であることもチェック)
- 1940年…大政翼賛会
- 1941年…日ソ中立条約、太平洋戦争
- 1942年…ミッドウェー海戦の大敗で形勢不利に
大政翼賛会
- 国家総動員法…1938年国の産業・経済・国民生活など全てを国が統制する権限を持つとして出された法律。
- 大政翼賛会…挙国一致のために結成された団体。ほとんどの政党や団体が解散して合流した。
第二次世界大戦
ドイツが独ソ不可侵条約を結び、ポーランドに侵攻→枢軸国と連合国の戦い→イタリア、ドイツの降伏。
- 独ソ不可侵条約…1939年8月、ドイツとソ連との間で結ばれた相互不可侵条約。付属の秘密議定書では東ヨーロッパにおける両国の勢力圏が定められ、両国はこれに従ってポーランドを分割した。1941年6月、独ソ戦の開始によって消滅。
太平洋戦争
1940年目独伊三国同盟→「大東亜共栄圏」の建設を唱え太平洋に進出→ABCD包囲陣→アメリカと開戦。(1941年の12月8日に、日本海軍がハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃)
- ABCD包囲陣…アメリカ、イギリス、中国、オランダは、ABCD包囲陣を強化して日本に対抗。日中戦争の長期化のさなか、1939年には、ノモンハンで関東軍とソ連軍との2度目の軍事衝突が起きた。
敗戦へ
学徒出陣や学童の集団疎開→1945年8月6日広島、8月9日長崎に原子爆弾→ポツダム宣言を受け入れ降伏。
- 1941年 大西洋会談:チャーチルとローズヴェルト→大西洋憲章。
- 1943年 カサブランカ会談:地中海作戦→カイロ会談:対日作戦→テヘラン会談:ヨーロッパ第二戦線の形成。
- 1945年 ヤルタ会談:対独最終作戦とソ連の対日参戦→ポツダム会談:対日処理方針のポツダム宣言を発表。
日本の降伏とポツダム宣言
- カイロ宣言…1943年、アメリカ、中国、イギリスがカイロで会議。日本の無条件降伏を目指すことを確認。
- ヤルタ会議…1945年2月、アメリカ、イギリス、ソ連がヤルタで会議。ドイツの降伏後のソ連参戦が決まる
- ポツダム宣言…1945年7月、アメリカ、イギリス, ソ連は,ドイツ のポツダムで会談し、日本に無条件降伏を求めるポッダム宣言を発
表しました。
日本政府は、当初、ポツダム宣言を受け入れるかどうかについて政府・軍部の意見がまとまらず、対応がおくれました。
原子爆弾
1942年のミッドウェー海戦の大敗で、日本の戦局は不利に。B29爆撃機による東京への空襲でより形勢は不利に。とどめにとして、広島、長崎に原爆が落とされ、無差別に大量の殺戮をもたらされる。1945年8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下されました。犠牲者数は、原爆投下から数年以内に、広島では20万人以上、長崎では14万人以上の人がなくなったと推定されています。
このころの国民生活
価格等統制令が施行されると共に、砂糖、マッチ、木炭などに切符制が導入される。物資が不足する中、日用品への統制も強まりました。それでも、配給だけでは不足するようになり、食料の闇取引もおこなれていました。
- ソ連の参戦…1945年8月8日、日ソ中立条約を破ってソ連が参戦し、満州・朝鮮などに侵攻しました。
- 無条件降伏…8月14日、政府はポツダム宣言の受諾を決定し、翌日8月15日、昭和天皇がラジオで無条件降伏したことを国民に知らせました。
- 日本からの解放…朝鮮、台湾などの植民地や占領されていた東南アジア諸国が日本から解放されました。
コメント