中学歴史「日清・日露戦争の重要ポイント」違いを確認しよう!です。
日清戦争
<日清戦争勃発までの経過>
- 朝鮮半島で甲午農民戦争がおこる
- 鎮圧のため、清と日本が朝鮮半島に出兵(鎮圧後も日本・清の両国とも朝鮮から兵をひかなかった)
- そのため清との戦争になる。
下関条約
日清戦争後の下関講和会議で結ばれた条約。1895年4月締結。清は、遼東半島・台湾などを日本にゆずりわたし、賠償金2億両を払う。日本は、清からの多額の賠償金をもとに、産業開発の投資や軍備の増強を行った。例として、八幡製鉄所などを建設。
➋領土…遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に譲渡する。
➌賠償金…2億両を支払う(当時の日本で約3憶円。当時の日本の財政収入の3年分相当)
朝鮮が清の属国でなくなり、朝鮮が独立国となったこともあり、、朝鮮は国名を「大韓帝国」に1897年に変更。
三国干渉
日清戦争での日本の勝利を脅威に思ったロシア、ドイツ、フランスが日本に遼東半島の清への返還を勧告→返還→日本は軍備の拡張へ。日本国内ではロシアに対する反発から、臥薪嘗胆という言葉が流行。日露戦争への風潮が高まっていった。
植民地獲得競争などでしのぎをけずる欧米列強は、同盟・協力関係でたがいに対抗していきました。
➋三国協商…イギリス・フランス・ロシアが協力。1891年露仏同盟、1904年英仏協商、1907年英露協商
<日本の動き>
1902年日英同盟、1907年日露協約を結び、三国協商側に加わります。
- 甲午農民戦争をきっかけに起こった日本と清との戦争。
- 勝利のあと日本は、下関条約により、賠償金を手にし八幡製鉄所を建設。
- 日本の勝利を脅威に感じたロシア、ドイツ、フランスは三国干渉で、日本に遼東半島の清への返還を求める。
- 日本は返還に応じるが、ロシアへの敵対心を強くし、日露戦争へ。
日露戦争
日露戦争では、それを悲観し、非戦を訴えた人物も入試では狙われます。それが、キリスト教徒の内村鑑三、社会主義者の幸徳秋水、そして、与謝野晶子です。その与謝野晶子の「君(きみ) 死(し)にたまふ(たもう)こと なかれ」という詩は有名。
日露戦争勃発までの過程
- 1899年清で列強に対する抵抗運動(義和団事件)
- 鎮圧後もロシアが満州に出兵、事件後もとどまる
- 1902年日本はロシアの南下政策に警戒するイギリスと日英同盟を結ぶ
- 日露で戦争になる。
当初、日本はロシアとの戦争を回避ため、外交で解決しようとしました。そこで、日本は、ロシアが満州を支配することを認めるかわりに、日本が朝鮮を支配することを認めさせるという案をロシアに提出しましたが、ロシアがそれを拒否。
日本海海戦では、海軍中将の東郷平八郎が率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を全滅させたことは、驚きをもって世界に伝わる。しかし、その一方で、大きな消耗を強いられることになり、その後の戦を続行することは不可能になった。
ポーツマス条約
日露戦争中、アメリカの仲介により、1905年9月に講和条約が結ばれた条約。旅順・大連の租借権、北緯50度以南の樺太をゆずりうける。
➋ロシアは、旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道の利権を日本に譲渡する。
➌ロシアは、北緯50度以南の樺太を割譲する。
➍ロシアは、沿海州、カムチャツカ半島周辺の漁業権を認める。
日露戦争後
日本はロシアと、満州などでの勢力範囲を決める1907年に日露協約を結び、協力しあう関係を築きました。南満州鉄道株式会社が設立され、鉄道の警備などのため、満州に日本軍が置かれた。のちの1919年に関東軍として改められる。
<国内>
賠償金は、得られず、譲渡された領土も利権も少なかったとしして、国民からは講和反対の声が上がる。日比谷焼き打ち事件へ。
日露戦争での犠牲や負担が大きく、賠償金がなかったことに対する国民の不満が爆発。
- 義和団事件後、ロシアが満州に留まり南下政策をとることをきっかけに日露戦争勃発
- ロシアのバルチック艦隊を全滅させたが、疲弊のあまり戦争続行が難しくなる
- アメリカの仲介により、1905年9月にポーツマス条約を結ぶ
- それを機に、南満州鉄道株式会社を設立し、日本軍(のちの関東軍)が満州に駐留
- 国内では、賠償金の得られないなどの不満から日比谷焼き打ち事件勃発
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